●月刊誌『健康と良いともだち』からの転載です。


2011/2/24
 十日間のキプロス旅行から帰ってきたところである。いつものように妻とふたり、レンタカーの旅だった。
 出発前、「なぜ、キプロスに?」と、よく問われた。帰国後も同じことを聞かれた。今回は仕事とは関連のない旅である。なるべく、日本人の行かない、知らない小国に行きたかったのだ。地中海の好きな妻も同意はしたが、やはり「なぜ?」でもあった。 それでも私はキプロス島に行きたかった。数十年間、紛争で南北に分断され、境界には国連軍駐留の緩衝地帯がある。南はギリシャ人の観光国として栄え、今ではEUにも加盟している。対して北は、トルコ軍が占領して、国際的には認められず、「国」といえない「地域」、きっと貧しいところに違いない。
 図書館やネットで調べても北に関する情報は非常に少ない。首都「ニコシア」(この都市さえ南北に分断されている)の中心部に、徒歩での越境が許可されている地点が一箇所あるのだが、はたして観光客が南北を車で通過できるのだろうか。渡航直前になり、どうやら首都近郊に、北へ抜けるチェックポイントがあることが分かったが、ギリシャ語の住所だけで、場所を示した資料もないまま日本を発つ事になった。
 南キプロス・ラルナカ空港の案内所や警察で尋ねても同じことだった。どうも外国人には教えたくないようだ。それでもどうにか住所からそのポイントを探し出したが、やはり地図にはそれらしきマークさえ載っていない。漠然とした不安は残った。
 しかし、実際は拍子抜けだった。南からの出国はノーチェック、緩衝地帯を百メートルほど走り北の管理所で二十ユーロ・三日間有効の保証金を払い、パスポートではなく、渡された紙に氏名と国籍、パスポート番号を書くとスタンプを押され、車内の検査もなく、すんなり北に入ることが許可された。その横では愛想のいい男が、北のカレンダーや観光資料などを、どっさりくれた。
 なんなんだ、これは。南は観光客をなるべく北に行かせまいとして、このチェックポイントの地図さえ示さない。北は観光客大歓迎。キプロスのイメージが狂ってしまった。(つづく)
▲ニコシア中心部から3kmほど西にある「国境」。2月の朝の冬空だが、空は青く日差しは強い。看板には WELCOME TO THE TURKISH REPUBLIC OF NORTHERN CYPRUS 「ようこそ、北キプロス・トルコ共和国へ」とあった


2010/12/20
 若い頃は、記憶力が自慢だった。勉強はともかく、中学三年時はクラス全員五十一名のフルネームを出席番号順に書くことができたし(それがどうした)、社会人になってからも五十件以上の電話番号を暗記していたものだ。
 なのに、私のアタマは一体どうなってしまったのだろう。近頃は前夜の食事、会ったばかりの人の顔や名前、固有名詞、普通名詞が出てこないことなど日常茶飯である。これが「呆け」なのか。
 そして電話番号に至っては、毎日通話する妻の番号さえ覚えられない。この原因だけは、はっきりしている。携帯電話のせいなのだ。
 私は一九九四年にドコモに加入している。携帯電話は非常に便利で、基本的には時間と場所を選ばず通話が可能である。しかも着信履歴は残るし電話帳機能も備えている。
 しかし「便利」は人を壊していく。この年、私の頭脳は「記憶する」という能力を放棄したようだ。
 その後、私は分厚い手帳を棄て、パソコンで日毎の記録をつけ始めた。これで私は、記憶と記録を機械に委ねたことになる。
「表」形式のソフトが、住所録はもちろん、日記として行動や予定、食事内容や場所、主な出来事や感想などあらゆる記録を残してくれる。それに、天気、出退社時刻、事務機器の使用状況、世界の情勢、日経平均株価、果ては知り合いや有名人の死亡日まで加わった。おまけに、息子が買ってくれた血圧計(二十回ほどの結果を記憶できる)の記録まで参加させてしまった。
 おかげで、私および周囲の過去の記録がいろいろ検索できる。それは確かに面白い。
 しかしその反面、この記録作成と(便利な)検索のために、私は膨大な時間を失ったことに気がつく。それでも、記録の項目や内容は今後さらに増え続けるだろう。今日も瑣末な事柄を入力し続けるのだ。この膨大な情報が近い将来、生かせるかどうかも分からずに。
 でも、もうアナログに戻ることは出来ない。便利なケータイとパソコンの奴隷のようだ。そして、記憶力も時間も戻らない。
▲先日購入した体重計(体組成計というらしい)はすごい。体重はもちろん、BMI、体脂肪率、筋肉量、推定骨量、基礎代謝量などのほか、なんと「体内年齢」を教えてくれる。私は現在49歳らしい。そうか、そんなに若いのか…
飲食店を出てから薬を飲まなかったことに気付くことがある。薬は飲み貯めが出来ない。で、自販機で飲料を求めるのだが、「熱いか冷たいか」の選択を迫られることになる。各メーカー様、自販機で常温の水の販売を検討しては如何だろうか。


2010/10/27
 高血圧といわれて三十年近くになる。
 といっても私の場合、通常の「高血圧」ではない。いばるわけではないが、最高血圧が常に百六十以上、寝起きなどは二百程度があたりまえだったのだ。
 長年の主治医は「頭痛や目眩がないのだから大丈夫でしょう」と至って呑気、降圧剤は飲みつつも気にはしていなかった。
 そんななか、夏の終わりの日曜日、事務所で「脳卒中」爆弾が私の頭の中で炸裂した。
 なんの前触れもなく、ぽとぽと落ちるよだれ、歩けば机の角にぶつかる、話す声は呂律が回らない。これは脳の発作だ、とは私でも気づいた。複数の知人から体験談を聞いていてよかった。
 ●症状に気付いたとき、意識はまだはっきりしていたので診察券と保険証をまず用意した。●救急車は呼ばなかった。●日曜なのに、すぐタクシーが拾え、道が空いていたので目指す病院の救命救急センターに五分足らずで到着した。●以前もそのセンターにお世話になっていたので受付がスムーズだった。●たまたまそのとき処置室に急患が少なかった。●当日、脳神経外科の専門医が在室中だった。
 いやぁ、本当に運がよかった。おそらく症状に気づいてからCT検査を受けるまで二十分はかからなかっただろう。
 結果は右脳奥での親指大の「脳出血」、短時間の遅れでも言葉や運動に問題が出たかもしれない。血液凝固や降圧のための点滴を受けながらストレッチャーでICU(集中治療室)に向う時、動く天井を見ながら「運の神様」に心から感謝した。
 さて、退院してからひと月半、半分出社しながら徐々に普通の生活への復帰を目指している。
 ところで退院以来、すごい変化が身体の中で起きている。通常血圧を維持しているせいか、うん○が理想的な硬さと大きさで定期的に排出されているのだ。あわててトイレに駆け込むことはなくなった。
 こんな「運」のいいやつはいない。
▲入院当日、集中治療室に妻がやってきた。このとき私はまだ血圧が正常ではない。それでもお約束、とばかり、息子に写真を撮らせるのだ。ま、仕方がない、これも記念写真。しかし「Vサイン」はないだろう
服用を命ぜられた薬は六種類。これが朝昼晩とすべて違う組み合わせなので面倒だ。そこで、百円ショップでいいものを見つけてきた。昔の鉛筆入れのようなプラスチックケースだ。これがすぐれもので三×七室の小さなブースに分かれている。一日三回、一週間分の薬が分割され、服用するときは楽である。しかし楽でないのがこのケースに薬を入れ分けるときだ。与えられた薬はひとつを除いてすべて同じ大きさで同じ白色。それぞれの服用数が違うので一旦入れ間違うと混乱する。薬粒にはルーペで見ないと分からないような小さな刻印しかないので区別がつかない。製薬会社さん、どうにか色分けするなど、わかりやすくしてください。


2010/8/23
 学生時代、よく映画館に通った。しかしロードショーとは縁遠く、いつも行くのは名画座といわれる二番上映館であった。
 あの頃は、朝からおむすびを持って大学は自主休校、飯田橋佳作座や池袋文芸坐などの二本・三本立上映で一日を過ごすこともあった。同じような学生がうろついていたことを考えると、映画は安手の娯楽と教養? だったのだろう。
 邦画洋画を問わず数多くの映画を観たが、当時はまだ情報誌が発達しておらず、一般紙夕刊のごく小さな案内広告を頼りに映画館を巡ったものだ。
 社会人になってからも細々と映画館通いは続いていたのだが、この五年ほどは、めっきり映画館から足が遠のいてしまった。コンピューター処理だらけの映画が増えたことも一因ではあるが、自宅に大画面のTVを導入したことが、その大きな理由だ。
 なにしろ二時間の映画が約二十本、テープやDVD無しで本体に録画できてしまうのだから、つい急かされるように観てしまう。衛星放送などでのノーカット上映も魅力的だ。かくして我が家の休日の夜は「在宅映画鑑賞会」となってしまった。
 しかし映画館に足を運ばない理由はこれだけではない。自宅だと費用が掛からず、都合のよい時間に、酒をちびちび飲みながら、トイレの我慢が不要なことはありがたい。しかも掟破りの「二度見」も可能。つまり私は「便利」に流されてしまっているのだ。これは「老い」のせいだけではあるまい。反省。
 もし、私みたいな怠惰人間が増殖しているならば、それは映画に対する冒涜といえるかもしれない。緊張感のない態度で映画を観るべきではない、と学生時代の私なら主張したはずだ。
 だが、一度獲得してしまった利便を手放すことは非常にむずかしい。このまま在宅鑑賞のみで良いわけはないのだが。
 
 むかしは小便臭かった早稲田松竹、改装して座席も広くなり、評判が良いらしい。ウィスキーの小瓶でも忍ばせて、数十年ぶりのあの名画座へ行ってみようか。
▲新装なった衆議院議員会館を見学した。以前に比べ倍以上の広さの部屋が各議員に与えられ、贅沢すぎる気さえする。さてその11階から見下ろした国会議事堂は化粧直し中、目隠しをされているようで所在無げであった。
カメラを失くしてしまった。二週間も経つので、もう戻っては来ないだろう。カメラ本体はさておき今は記憶カードの時代、四ヶ月分・約三百枚の画像が消えてしまった。バックアップを取っておけばと悔やまれるが、後の祭りだ。バカ馬鹿ばか…


2010/6/23
 東京の夏、特に梅雨の季節は苦手だ。黙っていても汗が出てくる。暑苦しいのは鏡の中だけで十分だ。
 というわけで、妻と初夏のハワイに行ってきた。格安の三泊五日パック、飛行機とホテルだけ用意されたものを利用して。
 実はハワイ、オアフ島は初めてである。。ホノルル空港も十数年前、乗り継ぎのために降りたことがあるだけなのだ。
 その初オアフ島、まったく噂通り、お気楽のんびり王国だった。全島どこでも日本語オーケー、蚊にもハエにも悩まされない快適さ、雨は降ってもサラッとしている。日中汗もかかず夜は涼しいので、エアコンを消し窓も閉めて寝ていたほどだ。
 さて実質三日間、一日目の夜は現地に長く暮らす友人と食事をし、二日目はカイルアビーチでシュノーケリング。三日目は朝早く車を借りて島を一周した。
 人混みはご勘弁なので、歩いて数分のワイキキビーチには足が向かず、ダイヤモンドヘッドも遠くから見ただけだ。
 そんな私たちにビッグな情報がもたらされた。なんと「気になる木」がこの島にあるという。何を隠そう、私はあの日立テレビCMのファンなのだ。
 なんとしても「この木なんの木」を自分の目で見た〜い。しかし、この木のあるモアナルア公園は、いつも日本人でいっぱいだという。で、朝八時前なら誰もいないだろうとレンタカーで向ったのだが、公園の駐車場には既に数台の大型バス、先を越された。
 ところで、この木はモンキーポッドという名で、ネムノキの仲間だ。島のいたるところに枝を広げている。街中には花が咲いている木もあったのだが、あこがれの大樹は元気が無さそうだった。たくさんの日本人観光客に疲れたのかもしれない。
 結局、この木との出会いが収穫のような今回の旅行だったが、帰国すると複数の知人からメールが届いていた。「あなたにハワイは似合いません」。
 確かに私もそう思う。

▲元気の無さそうな「気になる木」、葉がとても少ない。もしかしたら樹医が治療のため葉を落としたのかもしれない。幹の下のほうには包帯のような布が巻かれている。はやく元気になってください。
十四年間も私を診てくれた医師が、定年のためT病院を去ることになった。本来は消化器内科医なのだが、呼吸や心臓の相談にも応じてくれ、入院時には腹腔鏡手術の執刀もしていただいた。だが、紹介状を持って訪れた自宅近くの新しい病院は融通がきかず、従来と同じ薬を受け取るには四人の医師に掛からねばならない。しかも予約を取るのが大変、これでは病気になりそうだ。


2010/4/26
 本はなるべく図書館で読むようにしている。週に数回、何冊かの本を平行して読み進めるのが、今は楽しい。
 神保町が近いので古書店街を巡ることも多い。趣味の植物関係の書籍などは、ほとんどそこで購入したものだ。
 いっぽう、以前から大型書店も大好きで、店内を半日歩き回っても飽きることはなかった。しかしこの数年は、年齢のせいもあろうがそれが億劫になった。コミック本が幅をきかせ、単行本も雑誌なみに入れ替わりが激しい。その雑誌類もインターネット、ゲーム、オタク系などに席捲され、穏やかな趣味の雑誌が次々と廃刊に追い込まれているのも、その理由のひとつだろう。
 ところで、読みたい本に限って手に入らぬことがある。それも文庫本となると図書館や古書店では、なかなか見つけにくい。先日、文庫本を四冊探して超大型書店を訪ねたのだが結局一冊にさえ出合えなかった。もちろん店内のパソコン検索もしたのだが、やはりだめである。念のため係の人に、取り寄せの場合の日数を問うてみた。問屋に在庫があれば一週間、無ければ版元からで、さらに二週間ほどいただきます、それでも絶版も考えられますのでご了……。いやもう結構、お世話さま。
 事務所に戻り、以前から気にはなっていた(が、食わず嫌いだった)「アマゾン」で検索すると、即座に四冊とも新刊が在庫ありと出たではないか。おまけに手数料や送料も不要だという。騙されたつもりで注文をしたのは午後四時。それがなんと、四冊揃って翌朝九時に宅配便で手元に届いてしまった。しかもダンボールでの完全包装である。これには驚いた。メモと睨めっこをしながら探し回った、あの時間はいったいなんだったのだ。
 これでは一般の書店に勝ち目は無かろう。けっしてネット通販の一人勝ちが良いわけはない。それでなくとも電子書籍の波はそこまで来ているのだ。
 嗚呼、書店巡りの楽しみが消えていこうとしている。

▲先週金曜日、久々の仙台。今年度から女子生徒を受け入れ、ついに共学とな(ってしま)った母校「仙台一高」に新校長を表敬訪問(校旗に手を添えているのが筆者)。この日は雨だったが、やっと満開になったという桜が迎えてくれた
四月九日午後、高校同窓会の講演依頼確認のため私は、高校の先輩でもある作家の井上ひさしさんの事務所に電話をかけた。自宅療養中とのことで後日連絡をいただく約束だったが、その夜、井上さんは息を引き取られた。ご冥福を祈るのみである。


2010/2/18
 ここは銀座からも遠くはない中央区入船町。隣りの新富町は、私がデザイン仕事の世界に入りかけだった四十年ほど前、通っていた町である。
 以前からこのあたりは、幅広の道の整然とした町並みだったと記憶している。今は高層ビルやマンションそして地上げ跡の駐車場に侵食され、古い二階家などは肩身が狭そうだ。
 その夜、仕事の打合せを終えて最寄りの八丁堀駅に向かいながら道の両側を眺めると、ぽつぽつと点在する古家が、やけに懐かしく思えたのだ。
 ところどころに飲食店の電飾看板が灯っている。と、裏通りの角に「N平」という名のありきたりな店が目に入った。いったん通り過ぎたもののなぜか気になり道を引き返して、その古ぼけた居酒屋の戸をそっと開ける。
 L字型カウンターは八席ほど、土間を挟んで小上がりのある昔からの典型的な小料理屋である。うるさいTV・ラジオやカラオケもなく若者の喧騒とも無縁、年配の客をベテランの姉妹が明るく仕切っているようだ。
 築地にも近いせいか魚のつまみも豊富で黒板にチョークの品書きが溢れている。酒と肴がなんとも旨い。
「この店、何年になるんですか?三十二年、とすぐに返事がある。そうか、私の新富町時代とは重なっていないのか。にしてもかなり年季が入った店だ。清潔にしているが入口の引戸など、粘着テープで目張りをしている。
 ひとり、またひとり…と、どういうわけか「おひとりさま」中年男ばかりの御来店だ。よほど居心地が良いのだろう。これはいい店をみつけたものだ。
 そろそろ店が混んできたところで私は勘定をしてもらう。
「あと一週間…、来週の木曜日で店を閉めるんです。まだ貼紙もしてないけれど」。
 無理とは分かっていても、またいつか寄ってみたい気がする、数十年前にタイムスリップしたような時間と空間だった。
 この三月号が印刷される頃、ひとつの古い酒場が消える。

▲砂町の居酒屋?「いしづか」の新年会(二月中旬!に開催)。おなじ建物に住む呑み助たち、両端の二人(私たち夫婦)を除き全員若者だ
ちあきなおみが、歌の店仕舞いをして何年たつのだろう。彼女が歌った「紅とんぼ」という曲がある。インタネットのYouTubeで検索すればすぐ聴くことができる。ぜひいちど。


2009/12/17
 晩秋、スペインの荒野を駆け抜けてきた。この国でのドライブ旅行は三度目である。と書けば格好よく聞こえるだろうが、歳のせいか以前にも増して道に迷ってばかりの旅であった。(情けない)
 しかし、それ以外は、気分も天気も快調。レンタカーのありがたさを痛感だ。
 ところで、(主にヨーロッパで)私たちがレンタカーを利用するのにはもちろん理由がある。
 まず待ち時間が要らないし荷物が気にならない。重いトランクを転がして出発時間を気にしながらバスや列車のターミナルへ急ぐことなどないのだ。(いやみ)
 そして誰にも気兼ねなく好きな時に出発し、好きなところで車を停めて新鮮な空気を吸い、景色を眺められるのも嬉しい。しかし最大の利点はホテル探しにあるだろう。
 宿の予約を取らずに旅を続けるのは、気侭ではあるが不安も感じるもの。これが車だと安心である。雰囲気のいいホテルを見つけたら、まず手ぶらでフロントに出向き、泊まる部屋を見せてもらってから料金の交渉だ。気に入ればチェックイン。そうでなければ他を当たればよい。ホテルはいくらでもあるのだ。(やけに強気じゃないか)
 さらに買物でもレンタカーは威力を発揮する。ホテルのミニバーは飲み物などすこぶる高価だが、スーパーマーケットを探せば、約五分の一の価格である。大量に買い込んで車のトランクに入れておけばその旅に必要なワインやチーズは足りるだろう。(ちと浅ましい)
 と、都合のいいことばかり並べてみたが、単独個人旅行の場合レンタカーはどうだろう。コストが掛かるし、一人だけの運転で長距離移動は危険だ。だいいち旅の楽しみを誰かと共有できないのは淋しい。その点でも私は妻というセカンドドライバーに恵まれ、幸せである。(車の中で女房と二人きり、口喧嘩をしながら煎餅を喰い、演歌のCDを聞いているなら日本で自宅にいるのと同じじゃないか、という厳しい見方も確かにある)
 もちろん私、バスや列車の旅行も大好きなので(車中で酒が飲める)、そろそろ小さなトランクでゆったりと旅を楽しみたいものだが、そういう日々は果たして、いつか訪れるのだろうか。

▲カンタブリアの山奥、ポテスの町に寄ってみた。歩道は小枝ごと刈り取られたばかりのプラタナスの葉でいっぱいだ。木の高さも4mほどに切り揃えられる。太い幹に瘤だらけの短い枝、スペインでよく見られる冬の風景だ。妻が抱えているのはもちろん、ワイン…


2009/10/26
 近頃はすっかり回転寿司専門になってしまったが、以前から夫婦で安い寿司店に通っていた。
 注文はいつも「並」と「上」。並は妻、上は私である。べつに差別していたわけではない。彼女の好みが「並寿司」なのだ。
 「寿司大好き人間」を自称する妻だが、アジやコハダなどのヒカリモノは一切受け付けない。ウニやスジコなど論外で、トロもヒラメもアナゴも駄目、かろうじてマグロの赤身が食べられる程度だ。
 では、いったい寿司種の何が好きなのかというと、これがイカやタコと貝類だけなのである。
 ほんとうの寿司好きや寿司職人が聞いたら「口あんぐり」であろうが、この私にとっては好都合なのだ。妻のコハダと私のイカは当然交換する。「並」にウニでも入っていようものならすぐ私の皿に載せ、代わりにタコを持っていく。
 はじめのころは、私に遠慮しているのかとも勘ぐったがどうもそうではない。見た目と、舌の感触だけで好悪を決定しているようなのだ。
 誰にでも好みはあるのだから大きなお世話であろうが、なんでもおいしくいただく私から見ると、なんと勿体なく、寂しいことか。生の魚の旨さを語り合うことができないのだから。
 好物だった赤貝とホタテ貝柱に至っては食べ過ぎて飽きてしまったとか。ここまでくると単なるわがままだ。
 十年ほど前のアムステルダムでの食事を思い出す。私がちびちびとワインを飲んでいるうちに、鍋いっぱいのムール貝を妻はほとんどひとりで平らげてしまったのだ。
 それが懐かしく、昨秋訪れた際にもレイツェ広場周辺の食堂に寄ってみたのだが、残念ながらムール貝の料理は見かけなかった。
 今日も妻は回転寿司店の席に着くなり、ロコ貝とツブ貝を二皿ずつ計八貫、お決まりの注文だ。私もロコ貝をひとつ分けてもらおう。
 ま、なにを食べようが最後はカンピョウ巻で〆るのが私たちの流儀である。

▲ムール貝のワイン蒸し。鍋は直径25cmほど、なぜかフライドポテトがついてきた。ビール、白ワイン、サラダ、パンやスープ、コーヒーで約4500円は満足。当時の店「De Geus」のレシートがアルバムの中から出てきた。妻も当然10年前の顔だ
今朝、出社後しばらくして左足の甲に違和感を覚えた。足袋を脱ぐと中から大きなカシューナッツがぽろり。よく見ると洗濯石鹸のかけらだった。洗って干した時も履いた瞬間も歩いていても、その存在に気付かなかったとは。とほほ…


2009/08/24
 仕事柄、子どもの「命名書」を依頼されることがある。
 本来、命名書は父親本人が書くもの、と私は考えているが、なによりめでたいことでもあるので、私の字の癖をご了解いただいた上で、書かせてもらっている。
 ところが最近、困ったことに普通には読めない名前が増えてきた。たとえば「春衣妃」ちゃんや「瑠李音」くんなどの無国籍・アニメ主人公風漢字名である。
 戸籍の登録には、ふりがなが不要で読み方は自由なのだが、「はいび」「るいと」とは誰も呼んでくれそうにないし、覚えてもらうにも難しそうだ。
 親はもちろん良かれと思って付けるわが子の名前であろうが、他人からどう見られるかを考えねば、将来その子自身がかわいそうなことになる。
 かくいう私も三十数年前に二人の子の親となった時は、熟慮して名付けたつもりである。「卓馬」と「大吾」、当時としては奇抜な名であったかもしれない。
 ただ、私は命名の前にルールを作った。まず呼びやすく、聞き取りやすく、読みやすく、書きやすく、覚えやすいこと、そして男女の識別が容易なことだ。
 念のため先日、息子たちに確かめたところ、自分の名に不服はないとのこと、ほっとした。 
 いずれにしても、子の命名は親として最初の仕事であり、大きな責任を伴うものである。オリジナリティあふれる名を付けたいのは人情であるが、目立てばよいというものではない。子どもが一生つきあう「名前」は慎重に付けるべきだろう。
 ともあれ、時代によって名前の傾向が移り変わるのはあたりまえ、今の若い人に「夫・男・雄」で終わる男子、「子」で終わる女子の名前が少ないのは日頃から感じていた。
 しかし、この夏の甲子園出場全選手の名簿を見て驚いた。私の時代では多数派であったはずの…夫…男…雄は皆無。49校×18人=882人中、ゼロである。
 まいったなあ、マイナーなんてものではない。私の名前など、とっくに化石となっていたのだ。
まったく自然の力はすごい。この七月、半月ぶりで那須の古家を訪れると、縁側が竹林になっていた。陽も射さぬ地面から縁板を突き抜け、数本の布袋竹が天井まで伸びていたのである。小さな子どもでもいれば短冊を飾って、そのまま七夕祭りなのだが…
本屋には名付けに厳しい指南書も並んでいる。その一冊に曰く、『良い名前をつけるには次の条件が必須です。◎陰陽の配列を整える◎画数をすべて吉数にする◎五気(生年月日によって変わる)の組み合わせを考える…』これはこれで困ったものだ。


2009/06/26
 夏至も間近のある日、庭の真ん中に立つ老木が、私たちに素敵なプレゼントをくれた。
 那須の里、海抜五百。の春は一気にやって来る。
 三月下旬にやっと福寿草と蕗の薹が顔を見せたかと思うと、四月半ばには梅と桜がほとんど同時に花開くのである。
 那須に通い始めて約二十年、はじめこそ梅干を漬ける程度の実も付けてはいたのだが、この十年ほどは私の剪定の拙さのせいか花さえほとんど見せなかった梅の木が、今年は見事にたくさんの白い花を咲かせたのである。
 その花を愛でながら、もしかしたらの気持ちが無かったわけではないが、十年以上も実を持たなかった古木にあまり期待するのは酷な気もしていたのだ。
 しかしひと月前、ビー玉大の実が地面にいくつか転がっているのを見て期待は膨らむ。上にはたくさんの実が成っていた。
 先日、陽が陰るのを待ち、脚立に乗って実をもぎ始めた。はじめは丁寧に一個ずつもいでいたが面倒になり、数個の実を片手で掴んで小籠に入れていく。
 高さ三。あまり、太い幹は苔生しているのだが、密集した小枝は尖っていて、身体を捻じ曲げ手を伸しても、なかなか届かない実もある。
 それでも採れるわ採れるわ、あっというまに籠が重くなってくる。うれしいなあ、まだまだあるぞ、隣の枝にも上の枝にもいっぱいあるぞ。濡れ手で粟、まるで夢みたいだ。
 ん、夢? そうだ夢の中で、なぜかつぎつぎと十円玉を拾い続けるパターン(若い頃ほんとによく見た夢なのだ)にそっくりである。この貧乏ものめ。だがうれしいものはうれしい。というわけで大量の実を収穫した。
 あとは縁側に腰掛けて、布巾で一粒ずつ丁寧に拭いていく。収穫は三十分、それを拭くのに一時間もかかってしまった。でもこれもじつに愛おしく楽しい時間である。ケキョホケキョやテッペンカケタカの鳴き声がのんびり聞こえる。至福とはこういうことであろうか。
 さてこの収穫した実をどうしてくれよう。梅干か? いやいや当然、梅酒であろう。
 三ヵ月先には飲み頃になる。まったく困ったものだ。

金ザルに入れた至福の青梅。200個ほど採れた。傷のあるものなどを除いたあと、氷砂糖1kgと2.7P入りのペットボトル焼酎を全部使ってちょうど広口瓶にぴったり、いっぱい。梅酒予備軍の出来上がりだ
右下肢静脈瘤の術後経過がおもわしくない。前回の左脚と同じ医師による執刀だったのだが、今回は健康保険の利く安価な手術にしたのだ。そのせいかどうかはわからないが、二ヵ月経っても腰から下が辛い。やはり肝心なところで金をけちってはならないのか。


2009/04/27
 桜の時季に強風がなかったおかげだろう、今年はたくさんの花見が楽しめた。
 三月下旬開花したての靖国神社境内に始まり、小石川、四谷、谷中、駒込などを毎日のように散策。五分咲きの頃、倉敷に所用があり岡山後楽園の桜にも会えたのはうれしかった。帰京してからも雑司ケ谷、青山、駒場と巡り、咲き乱れる東京の桜を堪能したものだ。さらに四月下旬まさに満開のなか、雪のように舞い散る桜花を、那須の里で惜しむことができたのは幸せのかぎりだ。

 どうして桜はこんなにいいのだろう、こんなにうれしい気分にしてくれるのだろう。どうして飽きることがないのだろう。
 朝ぼらけの桜もいいし、朝日に輝くさまもいい。昼間はもちろん夕暮れも。そして夜桜は格別だ。晴天も曇天も雨に煙る桜もいいものだ。山の桜も里の桜も都会の桜もそれぞれに楽しめる。木の真下から見上げるのも一興、遠くに霞む桜もいい。対岸から眺める桜並木、ビルの上から見下ろす公園の桜林の美しさは圧巻だ。腰を下ろして眺めるのも、横になってうつらうつら見るのもよし、そぞろ歩きの桜もいい。電車の中から見える一瞬の花も心に潤いをあたえてくれる。ひとりで観るのもいいし連れ立った花見もいいものだ。桜を愛でながらの弁当はうまい、少しの酒があればなおさらだろう。ピンクのソメイヨシノに限らず白いヤマザクラも美しい。たった一本でも十分だし並木の桜も見応えがある。大木の桜は言うまでもないが幼木にも可憐な花がつく。ヒヨドリが花をついばむ様子など涙が出るほどの情景である。蕾の時に始まり一分三分七分満開、はらはらと散るのもよし花吹雪にも心が騒ぐ。道や池などに散った花びらにも風情がある。次の日には縮み汚れてしまうのはすこし辛いが。
 なににせよ理屈ぬきで楽しめるのが桜の花だが、葉桜になった途端にそれが桜の木だということさえ忘れてしまう私は、薄情者であろうか。
  
 眺めを何にたとふべき

塩原の田舎にひっそりと咲くシダレザクラ。毎年この木を観に立ち寄るのだが、老木のせいか年々元気がなくなるようだ。下のユキヤナギはどんどん大きくなってくる
また病気自慢。家内の副鼻腔炎・ポリープ除去手術は無事成功。再発の懸念はあるものの、嗅覚が戻ったため食欲旺盛で、こんどは体型が心配になってきた。私自身も右下肢静脈瘤の手術を受け、リハビリの最中。抜き取った血管の写真を見せまわり、嫌がられている。


2009/02/23
 旅に出る二週間前になって、腰が痛み始めた。歩くのが、辛い。
 もともと『下肢静脈瘤』と診断されていた右脚の痺れが腰に移動してきた感じである。
 出発前にどうにかしてもらおうと、近所の整形クリニックを訪ねた。ここは患者数の割りに、曜日ごと交替の医師が多く、予約無しでもあまり待たされずに診てもらえるのだ。
 初診担当のA医師はレントゲン写真を見るなり『坐骨神経痛』と診断、理学療法士に『牽引療法』を指示した。患部も見ずに自信たっぷりである。
 翌日は、別の医師Kが「もうお年なのだから仕方ないですな。痛み止めの薬を差し上げましょう」と大量の鎮痛薬を処方してくれた。たしかにこれを飲めば一時的に痛みは治まるのだが、いくらなんでもずっと飲み続けるわけにはいかない。
 二日後に行くと、また別のE医師(心臓血管外科が専門とか)が私の症状を聞いて『胸部レントゲン』と『心電図』を指示した。え、なぜ、の質問には、心臓の負担が腰に来ることがあるとの説明である。そういうものかと検査を受けたのだが、結局異常無しであった。
 また、K医師は『尿・血液検査』をしてくれたが、これまた異常は見つからなかった。
 こうなったら私も意地である。さらに別のY医師に診てもらう。彼によると、これは『脊椎滑り症』であり、『コルセット療法』で治すしかないとのこと。
 もう勘弁してくれよ。
 結果、私の腰痛は癒えることなく、旅行中もしんどい思いをしたのであった。

 この診療所は特殊かもしれないが、診てもらった四人の医師が誰一人として、(おそらく診療の基本であろう)患部の『触診』はおろか『視診』さえ、まともに行わなかったのには驚いた。
 ほとんど私の目を見ることもなく机上のモニターとにらめっこ、『下肢静脈瘤』のことを話しても無視されっぱなしであった。
 べつに医師や診療所を責めるつもりは無い。患者自身がある程度の知識を持ち、病院と医師を選ばねばならないことを、痛感したのである。
何に見えるだろうか。作為の無い「アート」である。工事のためカッターで切られ、赤や青のペンキで印をつけられた道路面なのだ。当然、掘り返され、次の日には消えていた。
病気自慢ばかりで恐縮だが、いよいよ妻の手術日が迫ってきた。夫婦二人で説明を受けて納得した心算だし、医師は、ごく一般的な「副鼻腔炎の内視鏡手術」だと言うが、「アスピリン喘息」の持病があるので心配だ。


2008/12/18
 運転免許を更新した。
 急速に低下する視力の検査にもどうやら合格し、規定の講習を受けて真新しい免許証を渡される。
 が、手にした免許証の「本籍欄」がどういうわけか空白だ。きけば「プライバシー保護」のためだという。氏名や生年月日・顔写真・現住所などは印刷されているのに、本籍だけがなぜ無いのだろうか。
 警視庁HPによると、平成十九年から免許証が「ICカード化」され、本籍はこの中に隠されているらしい。そしてこれを見るためには当日設定した八桁の暗証番号が必要なのだ。
 ん? どうも、役所のやることは分からない。

 別の日、パスポートの有効期限が近づいたので、これも更新に出向いた。
 申請の順番待ちをしていると、目の前に「ICチップ・パスポート」のポスターが貼ってある。ここでも「IC」である。こちらは平成十八年からの採用らしい。
 このICパスポートは偽造変造が出来ないように、顔写真・氏名・生年月日などの情報を冊子の中央頁に記録しているのだそうだ。
 まあ、たしかに偽造できそうにはないが、自分で内容の確認も出来ない。なにか嫌な感じだ。

 などと、昨今の「何でもIC化」傾向にけちをつけていたら昨日、「IC」のお陰ですばらしい恩恵を受けてしまった。
 残りが二ヶ月半もある定期券を紛失し、諦めつつ足を運んだメトロの駅事務室で、紛失した定期券をなんと「再発行」してもらったのだ。「IC」はすごい。手数料を千円支払ったが、無くしたお金が戻ってきたようなものだ。ものすごく得をした気分である。
 私は以前から継続定期券を、待ち時間無しの自動販売機で購入しているのだが、いまだに有人の定期券売場はいつも長蛇の列だ。
 自動販売機での定期券継続発行や、紛失定期券の再発行は意外に知られていないようだ。利用者の利便のため、東京メトロはもっと宣伝しなさい。
 今回の一件で、すっかり「ICカードファン」と化してしまった私である。

パスポート用の写真を撮ろうと、旅券課の隣の写真屋を覗くと二千円近くかかるという。そ、そんな。ということで有楽町駅の自動撮影機へ。ここでは七百円也。贅沢な昼飯代が浮いた。
今回と十年前のパスポート、顔写真を比べてみると、やはり年月を感じる。髪の密度と色、顔の張りも目の力もひと昔前のそれは確かに若い。はたして次(十年後)の私にパスポートは発行されるのだろうか。そして顔写真は如何に。